難民の方の明日を応援したい
2001年8月10日。
その日付が私達家族に課した暗い影を、これからも払い切ることは出来ないのかもしれません。
2023年3月4日。
もし兄が生きていたら43歳になっています。
ときどき、亡き母と兄が生きていたらどうしていただろうか?
と話したものでした。
結婚は遅かったんじゃないかな。
車の免許は取らなかっただろうね。
どこの国の大学にいたかな。
どんな人と恋に落ちたかな。
全て想像の話です。
兄が遠くの世界へ行ってしまってから、
アメリカの同時多発テロ、イラク戦争、アフガニスタンの内戦、東日本大震災等、書ききれないほどの世界的に困難な課題がたくさん生じました。
特に2001年の9月11日に起こったアメリカの同時多発テロは、兄が亡くなってしまった、という事実を現実のこととして実感してきた頃に起こった事件でした。
いつものように、夕食の後にリビングのソファーで寝こけていた私は、母のびっくりした声に目を覚ましたものです。
ハリウッド映画さながらの映像に、現実のことなのか架空の世界の話なのか、寝ぼけ眼で眺めました。
その時から、自分の周りに降りかかった災難が必ずしも自分だけではなく、戦争等で故郷を追われる難民の方々や女性が男性と同じように教育を受けられない国があるという現実に目を向けるようになりました。
兄がもし生きていたら、どういう研究をしていたかな。
世界のどこの地域の経済地理学を専攻していたかな。
社会的に弱い立場の国に、援助ではなく、自活出来る様にどのように支援していたかな。
海外の大学で教鞭をとるという夢は叶えたかな。
そのように、兄に聞きたいこと、教えてほしいこと、まだまだたくさんあります。
でも、
その願いは叶いません。
兄にいつの日か会えることを夢見て、
私はひとりでも色んなところへ出かけるようになりました。
お兄ちゃんに会えたら、素敵だったところの話をしてあげなくちゃ。
そういう思いから、パンフレットを集めたり、写真を撮ったりするようになりました。
それが、私の今の仕事の原型です。
私も年を重ね、兄が旅立った年齢の倍の年齢にあと数年でたどり着きます。
出来の悪い私が兄よりも長く生き、親をひとりで見送ることになるとは、思いもよらないことでした。
私が生きてていいのか、なぜあれほど努力していた兄が死ななければならなかったのか。
そのような思いに囚われ、自暴自棄になる自分がいました。
ですが、ようやく最近になり、もういい加減、兄の道標がなくても、自分の足で歩いていかなければならないと思い始めたのです。
兄の倍近く生きてしまった私が、今叶えたい夢。
それは亡き兄が叶えたかった社会の実現です。
兄のライフワークだった国際貢献、難民支援に微力ではございますが、少しでも貢献させて頂き、兄から託されたバトンを繋いでいきたいと思い至ったことが、
今回、私が一般社団法人NK.bridge to tomorrowを始めさせて頂く動機でございます。
ひとりでも多くの故郷を追われた難民の方々が、前を向き、明日を夢見て歩いていけるようなbridgeを兄と私で架けていきたいと思っております。
どうか共感された方がいらっしゃいましたら、ご一緒にbridgeを架ける助太刀をして頂けませんか?
Bridge to tomorrow.
My brother NAOMASA’s dream will live on.
The sky stays blue.